世の中が大きく変わる中で、問題のレベルや質が大きく変わってきたとも思えるけれど・・・
見た目は違っても、解決すべき問題の本質はそんなに変わっていないのかとも思える。
人生で起きることは、すべて生まれてくる前に自分で決めてきたことだから・・・
人生の起こる問題のように思えることは、あの手この手を形を変えて、次々やってくる。
信頼していた人の裏切りや社内のパワハラ、貧困、最愛の人との死や別れ、大病など
いい事半分、悪いこと半分と見方を変えると・・・
人生に起こることは、そう悪いことばかりじゃない。
色々な問題のように思えることも繰り返し起こり、人生は困難なように思えても、いいことだってたくさんある。
愛する人との出逢いや、子供の成長。仕事の成功や喜びもある。誰かとココロが通じ合えたという喜びや感謝も、人生の醍醐味。
どれも、すべて自分自身が計画したことであり、その計画は神様との約束だとしたら?
母なる大地地球から持ち帰られるもの
今、このカラダで人生で学びを終了し、持ち帰られるものは、3次元的な成功とは大きく異なるのかもしれない。本当の願い、自分が決めてきたことは、利他の精神で、目の前の人、そして世のために、情熱を燃やし、磨かれた魂として帰ることではないでしょうか?
私は、この苦難を乗り越えて、もっと慈しみ深い人になる。
神様の助け方
きっと神様は、経済的に困っている人に、突然お金が降ってくるような助け方はしないだろう。
きっと神様は、カラダを壊した人に、「お医者さんや薬が治してくれるだろう」とただ病院で寝ているだけで治る方向には導かないだろう。
もし一時的に回復したように見えたとしても、それは長続きしないし、見せかけの成功。
稲森和夫さんの小善は大悪に似たり 大善は非常に似たりという言葉を思い出した。
経済的苦痛を何年味わっているとしても、慈しみのココロで分け与えるような人に、助けを差し伸べるのだろう。
大病の人は、なぜ自分が健康を害したのだろうかと自分自身を見つめ直し、人生を修正しようとするのなら、神様はそこで初めて救いの手を差し伸べるのだろう。
時間を割いてお見舞いに来て下さったことのありがたさ。そんな環境は決して当たり前じゃない。
当たり前じゃない感謝の灯を人生のキャンドルサービスとして、まわりも照らそう。
困難や苦難に立ち向かう
困難や苦難から逃げれば、相手はさらに大きくなるだけ。
立ち向かう精神が、自分自身で決めてきた魂の計画だとしたら?
きっと問題と解決方法はセットで用意するだろう。
うん、きっとそうだ!!
だからこそ、乗り越えられない問題は目の前に現れないと人生の先輩たちは、教えてくてくれた。
だからと言って、立ち向かうことは、簡単な道ではないことは、百も承知。
なぜなら、立ち向かうためには、自分が今まで見たくないものとして蓋をしてきたことも、一度蓋を開けて、見なければならないこともあるだろう。
蓋を開けて、正面から見ることで、痛みを伴うかもしれない。
この時、注意したいのは、痛みを誰かにせいにしてはいけないということである。
この痛みは、自分を磨くために必要であり、魂は大切であると知っているからこそ、痛みを受け入れてしまえば、回復に向かう。
立ち向かえば、ばらばらのように見えたピースがひとつの大きな絵の完成に向かっているのだと、後から振り返って分かるときがくるだろう。
苦難は自分の在り方を見つめ直す一大イベント
晴天の霹靂ともいえるようなこともあるだろう。
でも、そのようなことを他人のせいにして、問題を直視しなければ、日々の生活で身動きがとれなくなるだけ。どんどん本当の自分から遠ざかり、人生の宿題は増えるだけである。
困難や苦難は、自分自身が決めてきた魂の計画、そして、神様との約束を思い出すために、自ら起こしたことではないか?
そう受け入れれば、今、目の前に起こっている問題に思えるようなことは、本当の自分とは何者であるか?そして、死がゴールだとしたら、その目標に向かって、今、何を意識して、今、何を行動しなければならないのか?見えてくる。
今、自分は何者であるのか?
今、利他の精神で、どう他人に喜ばれる存在となるのか?
今、自分のココロをどう磨いていくのか?
そんなことを見つめ直したいと思う。
最後に・・・
自分自身への備忘録として書き始めたテーマ
ふっと湧き上がってきたメッセージを振り返りとして残したいと書き始めたら文章がとまらなくなってしまいました(笑)
誰もが真剣に生きていると思う。
でも、困難や苦難を目の前にして、果たして「ど真剣」に生きているか?
そう問いかけられているように思えてきました。
誰もが自分の人生にど真剣に立ち向かえる強いココロとカラダを作るお手伝いをする。
そのお手伝いをど真剣に向き合い、自分の使命を全うします。